MESSAGE

河原﨑辰也からのメッセージ

ベーシスト蒲原幸治を生み育てた女性(ひと)

2008年9月2日

2008年8月23日、俺の携帯が鳴った、相手は蒲原だった。
蒲の口から出た言葉に俺は耳を疑い戸惑った「辰也さん、今、僕の母ちゃんが亡くなってしまいました」
あまりにも突然すぎた、だってこないだ会ったばかりじゃないか!
嘘だろ嘘だろ、嘘であってくれ…と事実を受けとめたくなかった。
でも嘘なはずはなかった。

毎回夫婦仲良くLIVEに来てくれて、2006年のツアーのときには東京にも奈良にも大阪にも来てくれた。何よりLIVEや俺たちが大きくなることを楽しみにしてくれていた。

蒲原は口にはださないが、やんちゃをやらかし父ちゃん母ちゃんにさんざん迷惑をかけたことをどれだけ悔いていたか、そしてやっとできはじめた親孝行をどれだけ喜んでいたか、近くで見ていて感じていた。
俺はステージで蒲をアイアンと呼ぶ、それは彼の音楽に対する姿勢と努力する姿が鋼の闘志を感じさせるからだ。
例えば自分の夢や将来を問われても迷いなく彼は「不安はない」と答え、技術的なことでなんとかなるものなら文句を言わず「練習すればいいだけだ」と言う。
この鋼の闘志ははじめからあったんじゃない、不安のないやつなんていないし過去には気に入らないことがあれば文句を言い散らかし、噛み付いていただろう。
鋼の闘志の出どころには蒲を信じ続けてくれた父ちゃん母ちゃんへの思いがあるからだろうと俺は思う。

バンドを結成してしばらくしたころ蒲に内緒で蒲のお母さんからメールをもらったことがある。
もちろんバンドはやる本人の生き甲斐であり自ら望んでやるものだが、「河原崎辰也」の冠でやっている以上、みんなの時間、言うなれば人生を俺が振り回しているという自責の念が常にある。
でもメールはそんな俺に対する感謝とエールでいっぱいだった。
「辰也君と出会い幸治の顔が変わりました本当にありがとう。」と蒲に志がたったことを誰よりも喜んでいた。
そのメールで本当に俺も救われたのだ。

ただ流れてく人生の中で志をたてれることほど幸せなことはないと思っている。戦いを挑むだけの力や一生の仲間をそれも若い内に得ることができるなんて素晴らしいと俺は思う。
その気持ちを理解してもらえたことに本当にありがとうございましたと言いたい。だから蒲もほんの少しでも親孝行ができたことに誇りをもってほしい

「死」には意味がある、いや生きてるものが意志を継ぎ「死」に意味をもたせる。
葬儀場で蒲のお父さんが俺をみて抱きついてきたとき、強く思った。
蒲がでかくなった姿をお父さんはもちろん、蒲原家にかかわるすべての方に必ずみて喜んでもらおうと。

愛する人を失う辛さはとてつもない、でもその辛さは愛する人を囲む人々の絆をより強くしてくれる。

佐々木も英さんもみんなも待っている。きっと蒲の父ちゃんが一番待っているぞ。蒲!蝉と一緒に泣き止んだら、元気だしていくぞ!!!